それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 人間の尊厳と生命の価値の剥奪

 カント以来、ヨーロッパの思索は、人間本来の尊厳についてはっきりした見解を示すことができました。カントその人が定言命法の第二式で次のようにのべているからです。
 「あらゆる物事は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」
 けれども、もうここ数十年の経済秩序のなかで、労働する人間はたいてい、たんなる手段にされしまいました。もはや、労働が目的のための手段に、生きていく手段に、生きる糧になっているということですらありませんでした。むしろ、人間との生、その生きる力、その労働力が経済活動という目的のための手段になっていたのです。
(4頁)

たしかに、模範になる人間はわずかです。自分の存在を通して働きかけることができる人間、またじっさいそうするだろう人間はわずかです。私たちの悲観主義はそれを知っています。しかしまさしく、模範になる人間が少ないために、その少数派はとほうもない責任を担っているのです。
(15頁)

 幸せは目標ではなく、結果にすぎない

 そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。帰結がでるように、おのずと湧くのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
(25頁)

 人生が出す問いに答える

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(27頁)

 苦悩で意味のある人生を実現する

 私たちはさまざまなやりかたで、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。
 (中略)
 もちろん、ふつうは、いまある困難のほかに困難を造りだす意味はありません。ふうつうは、不幸に苦悩する意味があるのは、その不幸が運命であって、回避できないばあいだけです。
 こうした不幸は「高貴」な不幸とよばれていました。けれども、そのような不幸に耐えて苦悩することで、人間は高貴にされるのです。最高価値の領域へさえ高められるのです。
(37頁)

 いつかは死ぬからこそ、なにかやろうと思う

 けれども、私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。
(47頁)

 苦悩は比較できない

 というのは、戦闘の中では無に直面します。死が迫ってくるのを直視しなければなりません。それに対して、収容所の中では自分が無になってしまっていたのです。生きながら死んでいたのです。私たちは何ものでもなかったのです。私たちはたんに無を見たのではなく、無だったのです。生きていてもなんということはありませんでした。死んでもなんということはありませんでした。私たちの死には光輪はありませんでしたが、虚構もありませんでした。死ぬということは、小さな無が大きな無になるだけのことだったのです。そして死んでも気に留められることはほとんどありませんでした。とっくの昔に「生きたまま」死ぬ前に死を体験したいたからです。
(中略)
 なんといっても、人間の苦悩は比較できないものです。それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、苦悩がその人の苦悩であることが、苦悩の本質に属しているからなのです。苦悩の「大きさ」は、苦悩しているもの、つまりその人しだいで決まるものなのです。ひとりひとりの人間が唯一で一回的な存在であるのとおなじように、ひとりひとりの人間の孤独な苦悩も唯一で一回的なものなのです。
(140頁)

 同罪

 さて今しがた、「知らない」といい張るのは、誤解しているからだといいました。ところが、まさに誤解する目的を問題にすると、そういうふうに「知らない」というのは「知りたくない」ということなのだということがひょっとすると明らかになるかもしれません。さて、「知らない」という裏にあるのは、責任回避なのです。その人は、反射的に、責任回避をしなければならないという気持ちになるのです。それは、共同の罪を引き受けなければならないことをおそれるからです。
(143頁)