平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

 人間の悪をいやす戦いは、まず自分自身との戦いから始まるのがつねである。そして、自己洗浄こそ、つねにわれわれの最大の武器となるのである。 (中略)本書の目的は、この問題に関するわれわれの無知に、われわれ自身が不満を抱くようしむけることにある。   (5頁)

あなたの性格には欠点があります。つまり、弱さです。  (41頁)

 正しい道ではなく、安易な道を求めています。(中略) 心理療法というのは、物事に面と向かって立ち向かうことです。たとえそれがどんなに苦しくてもです。心理療法というのは、逃げることではありません。逃げ出さないようにする方法です。 (43頁)

 悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。 生―――とくに人間の生―――には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、知覚、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。したがって、われわれは、髪の毛一本傷つけることなく子供を「破壊」することすらある。エリッヒ・フロムはこの事実鋭くついている。フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望―――他人を支配可能なものにし、その人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑えこんでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その薯のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。
 したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはとはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。 (56頁)

 私の経験によれば、真に邪悪な人間おはごくありふれた人間であり、通常は、表面的に観察するかぎりでは普通の人間のように見えるものである。(60頁)

 十五歳の少年は、だれもが、自分の置かれた状況によって抑うつ状態におちいるものである。病的なものは、彼の抑うつ状態にあるのではなく彼の家庭環境にあるのであり、彼の抑うつ状態はその家庭環境にたいする彼の自然な反応である。 (82頁)

 嫌悪感というものは、おぞましいものを避け、それから逃げだしたいという気持ちを即時に起こさせる強力な感情である。そしてこれは、邪悪なものに相対したときに、健全な人間が通常の行動を起こすための、つまり、それから逃げだすための、最も有効な判断手段となるものである。人間の悪は、それが危険なるものであるがゆえにおぞましいものである。 (90頁)

 邪悪な人間は、つねに、自分たちに動機をうそで覆うものである。 (143頁)

 邪悪性の最も典型的な犠牲者となるのが子供である。これは、子供というものが最も弱い存在であり、社会の影響を最も受けやすいものだからというだけではない。親というものは子供の人生たいしてほぼ絶対的な力を行使するものだということからも、当然のこととして予想されることである。奴隷にたいする親の支配とのあいだには、それほど大きな違いはない。子供とは未熟なものであり、親に依存するものであることを考えると、親が大きな権力を持つのも当然と思われるが、しかし、この権力は、あらゆる権力と同様に、さまざまな程度に悪用されるという事実を否定することはできない。しかも、親と子の関係は、強制された親密性の関係である。奴隷の主人は、自分と奴隷の関係が我慢のならないものになれば、いつでも奴隷を売りとばすことができる。しかし、子供がその親から自由ではありえないと同様に、親のほうも、自分の子供や、子供によって加えられる圧迫から容易に逃げだすことはできない。 (146頁)

 精神的に最も健全かつ最も高い域に到達している人が、普通の人が経験する以上の苦悩に苦しむことを要求されることは多い。偉大な指導者というものは、賢明かつ正しい人間であるならば、普通の人間にははかり知ることのできない高度の苦悩に耐えていることが多いものである。これとは逆に、情動的病の根底にあるのが、普通は、情動的苦痛の回避である。憂うつ、疑い、混乱、失望といったものを完全に経験する人間が、安定、満足、自己充実した人間よりはるかに健全だということもありうる。というより、病気とは、苦痛を受け入れるよりも苦痛を拒否することだ、と定義するほうがより当を得ていると言うことができる。
 邪悪な人間は、自責の念―――つまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識―――に苦しむことを拒否し、投影や罪の転換によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。彼らは苦痛を引き起こす。邪悪な人間は、自分の支配下にある人間にたいして、病める社会の縮図を与えている者である。 (172頁)

 われわれはみな、他人とのつきあいにおいて、多かれ少なかれ自己中心的になりがちなものである。 ある状況に直面したとき、われわれは、まず最初に、それが自分に直接どういう影響を及ぼすかという観点から考え、そのあとで、それにかかわりを有する人にどういう影響が及ぼされるかを考える。しかし、そうはいうものの、とくにだれかに気をひかれているときには、その人がこれをどう考えているか思いやるのが普通である。
 しかし、邪悪な人たちにはこれができない。邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。 (中略) ナルシストの他人にたいする無神経さは、共感の欠如以上のものにすらなりうる。ナルシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。 (190頁)

 邪悪な人たちを精察することのむずかしさはすでに述べたとおりであるが、これは、光を避けようとする邪悪な人たちの特性によるものである。自分自身の不完全性を否定する彼らは、内省を避けると同時に、他人に深く調べられるような状況から逃れようとするものだからである。 (212頁)

 自分を現実に従わせることがまったくできない精神障害を「自閉症」と呼ぶ。この言葉はギリシャ語の「自分」を意味する auto からきている。自閉症のひとは、ある種の現実の問題に無頓着になる。こういう人は文字どおり「自分だけの世界」に生きており、その世界のなかで自分が最高の存在として君臨している。 (232頁)

 専門化は、さまざまなメカニズムによって、集団の未成熟性やその潜在的悪を助長するものである。 (263頁)

 真の意味で善良な人とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは、状況の悪化に反応して対抗することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦悩に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である、と定義することができるかもしれない。 前著『愛と心理学』のなかでも述べたことがあるが、「人間の偉大さを計る尺度のひとつが―――そしておそらくは最良の尺度と思われるのが―――苦しみに耐える能力である」ということができる。 (271頁)

 人間は、ストレスを受けたときに退行するだけでなく、集団環境のなかにおいても退行を見せるのである。これが信じられないというのであれば、ライオンズ・クラブの集会やカレッジの同窓会を見ればうなずけるはずである。この退行のひとつの現われとして、リーダーにたいする依存心という事象があげられる。これは驚くほど明白に現れる。 (271頁)

 大半の人たちは、リーダーとなるよりはむしろ追随者となることを好むという事実である。これは、なによりもまず、怠惰の問題として考えることができる。人に従うことは容易である。指導者となるよりは追随者となるほうがはるかに楽なことである。複雑な決定を下すにあたって苦悩したり、前もって計画をたてたり、率先して物事を行ったり、不評を買う危険を冒したり、あるいは勇気をふるったりする必要がないからである。
 追従者の役割を演じるということは、子供の役割を演じることである。成人した人間は、個人としては船長であり、自分の運命を決定する支配者である。ところが、追随者としての役割を演じているときには、自分の支配力、つまり、自分自身にたいする権威、意思決定者としての自分の成熟性を指導者に譲り渡してしまう。子供が親を頼りにするように、リーダーにたいする心理的依存が生じる。こうして、普通の人は、いったん集団の一員となるや、たちまちにして情動的退行を引き起こす。
 集団療法の指導にあたるセラピストの立場からすると、この種の退行は好ましいものではない。心理療法家の仕事というのは、つきつめていけば、患者の成熟をうながし、助け、大きく発展させることである。したがって、グループ・セラピストの多くは、グループ内における患者の依存心に相対し、これに疑義を呈し、その後で自分は身を引き、患者自身が指導者としての立場を引き受け、これによって集団環境のなかで成熟した力を発揮する方法を学ぶようにすることである。グループのメンバー全員が、それぞれ独自の能力に従って、グループの指導者的立場を平等に引き受けるようになったときに、そのグループ・セラピーは成功する。理想的な成熟性をそなえたセラピー・グループとは、グループ全体がリーダーで構成されているようなグループのことである。 (272頁)

 集団で反抗すること、つまり反乱は無理だとしても、上官に反抗する勇気を持ちあわせた人間が、すくなくとも数人はいたはずだと期待できないものだろうか。しかし、これは必ずしもそうはならない。集団の行動パターンが驚くほど個人の行動に似ていることを私は指摘したが、これは、ひとつの集団というものはひとつの有機体組織だからである。この有機体組織は単体としての機能をもっている。個人の集まりである集団が、「集団凝集性」と呼ばれるものによって個体として行動するのである。集団内では、個々の構成員の結束と調和を維持しようとする大きな力が働く。こうした凝集力が損なわれると、その集団は解体を始め、集団ではなくなるのである。
 この集団凝集力として最も心地よいかたちとして、集団のプライドというかたちで表出される。グループの構成員が自分の所属するグループに誇りを抱くと同様に、グループ自体が自分自身にたいして誇りを抱くようになる。ここでもまた軍隊は、ほかの多くの組織以上に、意識的に集団のプライドを高める方向の動きをする。集団を象徴するさまざまなもの―――隊旗、そで章、あるいはグリーンベレーなどの特殊部隊の場合には特別の軍服―――をつくり、また、隊内スポーツ大会から隊ごとの敵の戦死者数の比較といったことにいたるまで、競争を奨励することによって集団のプライドを高めようとする。
 あまり感心しないことではあるが、現実に広く見られる集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみを抱くことである。これは、初めて集団を組むことを学んだ子供たちにも自然に発症するものである。その集団に所属しない人間は劣った人間か悪い人間、あるいはその両方であるとして見下される。その集団にまだ敵がいないときには、ごく短期間に敵がつくられる。 (中略) しかし、こうしたナルシシズムの利用は―――無意識のものであろうと意図的なものであろうと―――潜在的に邪悪なものである。邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。
 こう考えると、物事に失敗した集団が最も邪悪な行動に走りやすい集団だということが明らかとなる。失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。したがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。これは集団にもあてはまることである。集団が失敗し、それが集団の自己批判をうながすようなことになると、集団のプライドや凝集性が損なわれる。そのため、国を問わず時代を問わず、集団の指導者は、その集団が失敗した時には、外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めるようにするのがつねである。 (273頁)

 われわれの学ぶべきことは、専門化集団をつくるときには、「自分の左手のしていることを右手が知らない」といった状態になる可能性がつねにある、ということである。これは、たらいの水といっしょに赤ん坊まで流してしまう、つまり、細事にこだわって大事を逸することになる。要するに、専門化グループを編成するときには、それに伴なう潜在的危険性を認識し、その危険性を最小限にとどめるようにすべきだということである。  (284頁)

 なぜなら、悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるものだからである。 (287頁)

 人間のものの考え方には一種の慣性が伴うものである。いったんなる考えが行動に移されると、それに対立するいかなる証拠をつきつけられようと、その行動は動きを止めようとしない。ものの考え方を変えることには相当の努力と苦しみが伴なう。これにはまず、自己不信と自己批判の姿勢を絶えず維持しつづけることが必要であり、あるいは、自分がこれまで正しいと信じてきたことが結局は正しくなかった、という苦痛を伴った認識を持つことを要求される。そのあとには混乱が生じる。これは実に不快な混乱である。もはや、正しいことと間違ったことの判断、いずれの方向に進むべきかの判断が自分にはつかないように思われる。しかし、そうした状態こそ、偏見のない開かれた心の状態であり、したがって、学習と成長のときである。混乱と困惑の流砂のなかからこそ、新たな、より優れたものの見方へと飛躍することができるのである。  (295頁)

 邪悪性とは、ごく簡単に定義するならば、誤った完全性自己像を防衛または保全する目的で、他者を破壊する政治的力を行使することである。  (297頁)

 われわれは組織の時代に生きている。一世紀前のアメリカ人の大半は自営の仕事についていた。今日では、ごく少人数の人を除いて、ほぼすべてのアメリカ人が自分の労働生活を組織や企業に提供しており、また、この組織や企業はますます大きなものになっている。集団のなかでは責任が分散され、大規模集団のなかでは事実上責任が消滅してしまうこともある。大企業の場合をとりあげてみると、社長や取締役会会長ですらこう語ることがる。「私の行動は全面的に倫理にかなったもものとは言えないかもしれないが、しかし、結局のところ、私の行動は私自身の機能によるものではない。私は株主にたいして責任をおわなければならない。株主のためを考えれば、利潤動機によって動かざるをえない」。だとすると、企業の行動を決定するのはいったいだれなのだろうか。
 このように、組織というものは、その規模が大きくなればなるほど顔のないもの、魂のないものとなる。魂がなければどういうことになるのだろうか。単に空っぽというだけのことだろうか。それとも、かつては魂が占めていた空席に悪魔が入りこむのだろうか。私にはわからない。
 集団の悪を防止するための科学的基板を確立する研究はいまだなされていないが、これを防止するための努力をどの方向に向けるべきかは、すでにわれわれにもわかっていると私は考えている。ソンミ村事件を調べてみれば、あらゆるレベルの知的怠惰と病的ナルシシズムの作用が明らかになるはずである。戦争そのものをふくめて集団の悪を防止するには、怠惰とナルシシズムを根絶、あるいは、すくなくとも著しく減少させる必要のあることは明白である。
 しかし、いかにしてこれを実現すべきだろうか。通常であれば、集団の行動に影響を与えようとするときには、まず集団のリーダー一人ひとりに働きかけるのが最も効率的なやり方である。集団のリーダーに働きかける道が閉ざされているときには、集団の最下層の構成員に働きかけ、草の根的な支援を得なければならない。そのいずれの方法をとるにしても、われわれの働きかける相手は個人である。なぜなら、「集団心」というものも、結局のところ、その集団を構成している個人の心によって決定されるものだからである。選挙では一票が決め手となることがあるが、それと同様に、人間の歴史の方向全体が、一人の孤独なつましい個人の心に左右されることもありうる。個人が神聖なものと考えられているのもこのためである。善と悪の戦いが行われ、最終的な勝敗が決せられるのも、個人の孤独な心と魂のなかにおいてだからである。
 したがって、戦争をふくめて集団の悪を防止する活動は個人に向けられるものである。いうまでもなく、これは教育の問題である。教育は、既存の伝統的学校制度の枠内において最も容易に行うことのできるものである。本書は、いつの日かあらゆる子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の論理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己洗化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。  (309頁)

 われわれが悪という事象を科学的に究明しようとしなかった最大の理由は、おそらく、その結果を恐れてのことであったと考えられる。また、それを恐れるだけの十分な理由がある。悪の心理学の発展には、特有の、真に恐ろしい危険が伴うものである。本書は、そうした危険と、悪の心理学を発展させなかったときに生じる危険とをはかりにかけた場合、後者の危険性のほうがより大きいとの前提に立って書かれたものである。とはいえ、悪という事象を科学的に吟味の対象とする試みに加わろうとするも者は、まず第一に、そうした試みそのものが悪を引き起こす可能性を持ったものである、ということを深く考えたうえで行動すべきである。  (311頁)