ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 R・D・レインが『引き裂かれた自己』の中で述べているように、分裂病質は外的自己と内的自己との分裂を特徴とする。他者との関係、外界への適応はもっぱら外的自己にまかされ、外的自己は、他者の意志に服従し、一応の適応の役目を果たすが、当人の内的な感情、欲求、判断と切り離なされ、ますます無意味な、生気のないものになってゆく。内的自己は、そのような外的自己を自分の仮の姿、偽りの自己と見なし、外的自己の行うことに感情的に関与しなくなり、あたかも他者の行動をながめるように距離をおいて冷静に突き放してそれを観察しようとする。内的自己のみが真の自己とされるが、内的自己は、外的現実および他者と切り離され、遊離しているためますます非現実的となり、純化され、美化され、妄想的となってゆく。  (16頁)

 外的自己と内的自己とが生き生きとした統一的関係にあってこそ、いいかえれば外的自己が内的自己のありのままの自発的表現であり、かつ内的自己が外的自己の行動を自分の主体的意志に発し、自分が決定でき、自分に責任がある行動であると実感していてこそ、人格の統一性、自己同一性は保たれるのである。外的自己と内的自己とを使い分け、外的自己を危機的状況、驚異的外敵に対処するための一時の仮面とするならば、内的自己は外的自己に対するコントロールを失い、そのうち、外的自己は内的自己の意志は無関係に振る舞いはじめ、その行動は自分ではなく他者によって決定されるように感じられてくる。つまり、内的自己から見れば、外的自己はむしろ敵の同盟者のようにうつる。他人が自分の内奥まで踏みこんでくるという被迫害感の起源はここにある。これがもっとも極端になれば、他人が電波を発信して自分の思考の内容を操作し、決定しているとか、スパイが自分の一挙手一投足を監視しているとか、悪魔が自分に取り憑いて自分の意思に関係のない勝手なことを自分に言わせたり、やらせたりするという分裂病者の被害妄想となる。  (19頁)

 自己嫌悪は、容易に他人への嫌悪と軽蔑に転化し、また、それを支える基盤となるのである。自己嫌悪は、内的葛藤の状態であり内的緊張を高める。その緊張の解消のために、嫌悪が必然的に他人に投影されるようになる。差別と偏見の心理基板はここにあると、私は思う。たとえば、人びとが便所の汲取人を軽蔑するのは、排泄行為をする現実の自分の姿に嫌悪を感じ、自分のその側面を非自己化し、抑圧しているからである。その自己嫌悪が汲取人に対する差別と偏見を支えている。そういうわけで、人びとにとって必要な不可欠なことを行う者が、そのためにかえって差別と偏見の犠牲になるという、実に割の合わないことになる。ユダヤ人に対する偏見の一因は、ユダヤ人が社会の維持のために必要な金銭を扱う仕事を分担したことにある。モーパッサンを地で行ったように、ナチの占領から解放されたフランス人は、ドイツ兵相手のフランス人娼婦の頭を丸坊主にしたが、それは、占領下のフランス人にとって必要であった、ドイツ兵の機嫌を取るという仕事を彼女らが遂行したからであり、フランス人が、そういう屈辱的なことをしなければならなかった現実の自分に嫌悪を感じ、自分のその側面に対してみずから責任を取ることを回避して自己嫌悪を彼女らになすりつけたのである。その卑劣さは、ドイツ兵に体を売った行為の比ではない。
 要するに、自己嫌悪ほど卑劣なものはない、というのがわたしの結論である。 (326頁)