親なるもの断崖 第1部 (宙コミック文庫)

親なるもの断崖 第1部 (宙コミック文庫)

親なるもの断崖 第2部 (宙コミック文庫)

親なるもの断崖 第2部 (宙コミック文庫)

 社会の底辺で生きる者たちを蔑視し その人格人間性を否定し無視しながらも そういう者たちを不可欠とする 矛盾だらけの社会の側面がある

 まるで遠くからおしよせてくるように おれの生命の底から湧きあがるもの 
 おれは自分を信じてそれに従って行動している

 これがあたり前だと思うな 無学でいることを 自分が女郎でいることに疑問を持て! おまえが今の時代そのものだ! 今の社会そのものなのだ! 女性とはすばらしいものだ 男にはとうていかなわない強さがある きっとおれはおまえをここから出してやる! おれといっしょにいきるんだ!! 忘れるな!次の時代を産み出すのは女性だということを! どんなに苦しくても耐え抜いて生きた人間がいたからこそ 次の時代と文化が生まれてきたのだ! その本流は女性だ!! 本流は女性だ!!

 満州事変 日中戦争 そして太平洋戦争 それらを総称して十五年戦争と呼ばれる 日本人のほとんどがこの戦争に加担し協力して戦った
 当時戦争に反対した国民は少なく それは「非国民」と呼ばれ 国家権力により ほとんどが抹殺されていった 指導者の命令とはいえ 戦争に協力し 数々の残虐行為を行った人たちの多くは民衆であった その民衆とは 自分の父であり 愛するひとである 
 平和な時代に 妻を愛し 子供をいくつしみ 平穏な生活を送っている人々が 帝国主義軍国主義の思想にとりつかれいったん戦場に立つと魔性の人間に豹変する そこに戦争のもつ恐ろしさがある それが同民族同じ国民にも容赦しない 間違った思想を生み信じることほど恐ろしいものはない

 口に出しては言えない言葉がある 言葉にならない苦しい思いがある だけどいつか問うてみなければならない過去がある 悲しい出来事がある

魔女狩り (岩波新書)

魔女狩り (岩波新書)

 この迷信と残虐の魔女旋風が、中世前期の暗黒時代においてではなく、合理主義とヒューマニズムの旗色あざやかなルネサンスの最盛期において吹きまくったということ、しかもこの旋風の目の中に立ってこれを煽りたてた人たちが、無知蒙昧な町民百姓ではなく、歴代の法皇、国王、貴族、当代一流の大学者、裁判官、文化人であったということ、そしていまひとつ、魔女は久遠の昔から、どこの世界にもいたにもかかわらず、このように教会や国家その他の公的権威と権力とが全国的に網の目を張りめぐらしたこの上なく組織的な魔女裁判によって魔女狩り行われたのはキリスト教国以外にはなく、かつ、この時期(一六○○年をピークとする前後三、四世紀間)に限られていたということ、―――これはきわめて特徴的な事実ではあるまいか。魔女裁判の本質は、結局、この「地域」と「時期」との関連の中にある。
(7頁)

 これらの精密豊富な実例と真実性の強調とで、新しい魔女像が人々の心深く刻みこまれていったのは無理もなかった。この架空の魔女像が巻き起こした魔女旋風の中で数知れぬ男や女が焼かれていったのは悲劇だった。しかし、この魔女像の制作者自身が、それを実在だと信じきっていたことはさらに悲劇であった。この制作者たちは誠実で敬虔(けいけん)な、一流の、少なくとも二流以下ではない、立派な人々であった。欺瞞的に捏造しようなどという意図は毛頭なかったはずである。
 パスカルはいっている。 ――― 「人は、宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」(『パンセ』)
(73頁)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

詩の定義 
  

 詩を書きはじめてまもない人たちの集まりなどで、いきなり「詩とは何か」といった質問を受けて、返答に窮することがある。詩をながく書いている人たちのあいだでは、こういったラジカルな問いはナンセンスということになっている。「なにもいまさら」ということだろう。しかし、詩という形式がまだ新鮮な人たちにとって、この問いはけっしてナンセンスではない。彼らにとって詩は驚きであり、その驚きの全体に一挙に輪郭を与えたいという衝動は、避けがたいことだからである。この問いにおそらく答えはない。すくなくとも詩の「渦中にある」人にとっては、答えはない。 しかし、それにもかかわらず、問いそのものは、いつも「新鮮に」私たちに問われる。新鮮さこそ、その問いのすべてなのだ。
 ただ私には、私なりの答えがある。 詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。 詩における言葉は言わば沈黙を語るための言葉、「沈黙するための」ことばであるといっていい。 もっとも耐えがたいもの語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、言葉に課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。  (10頁)

位置


しずかな肩には
声だけがならぶ
声よもり近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
その左でもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それがそれが
最もすぐれた姿勢である

待つ


憎むことは 待つことだ
きりきりと音のするまで
待ちつくすことだ
いちにちの霧と
いちにちの雨ののち
俺はわらい出す
たおれる壁のように
億千のなかの
ひとつの車輪をひき据えて
おれはわらい出す
たおれる馬のように
ひとつの生涯のように
ひとつの証人を待ちつくして
憎むとは
ついに怒りに至らぬことだ

方向


方向があるということは新しい風景のなかに即座に旧い風景を見いだすということだ 新しい位置に即座に古い位置が復活するということだ ゆえに方向をもつということは かつて定められた方向に いまもなを定められていることであり 混迷のただなかにあって およそ逸脱を拒まれていることであり 確とした出発点がないにもかかわらず 方向のみが厳として存在することであり 道は制約されているにもかかわらず 目標はついに与えられぬことであり 道を示すものと 示されるものがついに姿を消し 方向のみがそのあとにのこることである
それは あとでもなく確実であり ついに終わりに到らぬことであり つきぬけるものをついにもたぬことであり つきぬけることもなくすぐに通過することであり 背後はなくて 側面があり 側面はなくて 前方があり くりかえすことなく おなじ過程をたどりつづけることであり 無人の円環を完璧に閉じることによって さいごの問いを圏外へゆだねることである

構造


 よろこびは いかなる日々にあったか。あるいは苦しみが。 よろこびと苦しみの その構造を除いて。いかなる自由においてえらばれてにせよ えらばれたのは自由でも 苦痛でもなく つねにその構造であったということを。語りつがれたものはその構造でしかなく 構造をうながしたものは 永久に訪ねるもののない原点として残りつづけたし 残りつづけるのだということを 一度だけは確認する必要があるだろう。
 ゆえに 語りつがれなければならないのはつねに それを強いた構造ではなく それが 強いられた構造である。しいられた果てを おのれにしいて行く さらに内側の構造である。
 その構造において 構造をそのままに おのれにしいる静寂があったということを およそ語りつぐものは一人であり 語りつがれるものもまた一人である。
 われわれが構造にやすんじあえるのは まさにそのゆえである。

痛み


 痛みはその生に固有なものである。死がその生に固有なものであるように。固有であることが 痛みにおいて謙虚をしいられる理由である。なんびとも他者の痛みを痛む事はできない。それがたましいの所業であるとき 痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有であることが 人が痛みにおいて ついに孤独であることの さいごの理由である。痛みはなんらかの結果として起こる。人はその意味で 痛みの理由を 自己以外のすべてに求めることができる。それは許されている。だが 痛みそのものを引き受けるのは彼である。 そして 「痛みやすい」という事実が 窮極の理由として残る。人はその痛みの 最後の主人である。
 最後の痛みは ついに癒されねばならぬ。治癒は方法ではない。痛みの目的である。痛む。それが痛みの主張である。痛みにおいて孤独であったように 治癒においてもまた孤独でなければならない。
 以上が 痛みが固有であることの説明である。実はこの説明の過程で 痛みの主体はすでに脱落している。癒される事への拒否は そのときから進行していたのだ。痛みの自己主張。この世界の主人は 痛みそのものだという 最後の立場がその最後にのこる。

疲労について


この疲労を重いとみるのは
きみの自由だが
むしろ疲労
私にあって軽いのだ
すでに死体をかるがるとおろした
絞索のように
私にかるいのだ
すべての朝は
私には重い時刻であり
夜は私にあって
むしろかるい
夜にあって私は
浮きあがる闇へ
かるがるとねむる
そのとき私は
すでに疲労そのものである
霧が髭を洗い ぬらす
私はすでに
死体として軽い
おもい復活の朝が来るまでは

 私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)強い不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである。
 強制収容所内での人間的憎悪のほとんどは、抑留者をこのような非人間的な状態へ拘禁しつづける収容所管理者へ直接向けられることなく(それはある期間、完全に潜伏し、潜在化する)、同じ抑留者、それも身近にいる者に対しあらわに向けられるのが特徴である。それは、いわば一種の近親憎悪であり、無限に進行してとどまることを知らない自己嫌悪の裏がえしであり、さらには当然向けられるべき相手への、潜在化した憎悪の代償行為だといってよい。
 こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵略者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからずものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。ここには、人間のあいだの安易な、直接の理解はない。なにもかもお互いにわかってしまっているそのうえで、かたい沈黙のうちに成立する連帯である。この連帯のなかでは、けっして相手に言ってはならぬ言葉がある。言わなくても相手は、こちら側の非難をはっきり知っている。それは同時に、相手の側からの非難であり、しかも互いに相殺されることなく持続する憎悪なのだ。そして、その憎悪すらも承認しあったうえでの連帯なのだ。この連帯は、考えられないほどの強固なかたちで、継続しうるかぎり継続する。
 これがいわば、孤独というものの真の姿である孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無償な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。
 この連帯は、べつの条件のもとでは、ふたたび解体するであろう。そして、潮に引きのこされるように、単独な個人がそのあとに残り、連帯へのながい、執拗な模索がおなじようにはじまるのであろう。こうして、さいげんもなくくり返される連帯と解体の反復のなかで、つねに変わらず存続するものは一人の人間の孤独であり、この孤独が軸となることによって、はじめてこれらのいたましい反復のうえに、一つの秩序が存在することを信ずることができるようになるのである。
 (94頁)

アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか

アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか

 アメリカに中央情報機関が置かれ、世界の隅々にまでスパイのネットワークが張りめぐらされる以前、そのスパイたちの役割を肩代わりしていたのは、民間の石油企業や投資銀行、それに法律事務所などのエリートたちであった。アメリカは真珠湾で日本軍による攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦するわずか半年前に、中央情報局(CIA)の原型にあたる情報調整局(COI)を設置したが、それまではスタンダード石油やブラウン・ブラザーズ・ハリマン商会、それにサリバン&クロムウェル法律事務所などの役員を務めるエリートたちが、国際政治の舞台裏で暗躍し、アメリカの対外政策に大きな影響を及ぼしていた。

なんでもいいから「動く」のです。
(中略)
その一歩が、電源を入れるスイッチになります。電源を入れてエネルギーが回れば、どんなものでも動きます。そして熱を発散するのです。
同じように身体は動くと熱くなります。心も同じなのです。
やる気が出てから動くのではなく、動くからやる気は生まれるのです。

【「やる気」が出るコツ、続くコツ 和田裕美

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 人間の尊厳と生命の価値の剥奪

 カント以来、ヨーロッパの思索は、人間本来の尊厳についてはっきりした見解を示すことができました。カントその人が定言命法の第二式で次のようにのべているからです。
 「あらゆる物事は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」
 けれども、もうここ数十年の経済秩序のなかで、労働する人間はたいてい、たんなる手段にされしまいました。もはや、労働が目的のための手段に、生きていく手段に、生きる糧になっているということですらありませんでした。むしろ、人間との生、その生きる力、その労働力が経済活動という目的のための手段になっていたのです。
(4頁)

たしかに、模範になる人間はわずかです。自分の存在を通して働きかけることができる人間、またじっさいそうするだろう人間はわずかです。私たちの悲観主義はそれを知っています。しかしまさしく、模範になる人間が少ないために、その少数派はとほうもない責任を担っているのです。
(15頁)

 幸せは目標ではなく、結果にすぎない

 そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。帰結がでるように、おのずと湧くのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
(25頁)

 人生が出す問いに答える

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
(27頁)

 苦悩で意味のある人生を実現する

 私たちはさまざまなやりかたで、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。
 (中略)
 もちろん、ふつうは、いまある困難のほかに困難を造りだす意味はありません。ふうつうは、不幸に苦悩する意味があるのは、その不幸が運命であって、回避できないばあいだけです。
 こうした不幸は「高貴」な不幸とよばれていました。けれども、そのような不幸に耐えて苦悩することで、人間は高貴にされるのです。最高価値の領域へさえ高められるのです。
(37頁)

 いつかは死ぬからこそ、なにかやろうと思う

 けれども、私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。
(47頁)

 苦悩は比較できない

 というのは、戦闘の中では無に直面します。死が迫ってくるのを直視しなければなりません。それに対して、収容所の中では自分が無になってしまっていたのです。生きながら死んでいたのです。私たちは何ものでもなかったのです。私たちはたんに無を見たのではなく、無だったのです。生きていてもなんということはありませんでした。死んでもなんということはありませんでした。私たちの死には光輪はありませんでしたが、虚構もありませんでした。死ぬということは、小さな無が大きな無になるだけのことだったのです。そして死んでも気に留められることはほとんどありませんでした。とっくの昔に「生きたまま」死ぬ前に死を体験したいたからです。
(中略)
 なんといっても、人間の苦悩は比較できないものです。それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、苦悩がその人の苦悩であることが、苦悩の本質に属しているからなのです。苦悩の「大きさ」は、苦悩しているもの、つまりその人しだいで決まるものなのです。ひとりひとりの人間が唯一で一回的な存在であるのとおなじように、ひとりひとりの人間の孤独な苦悩も唯一で一回的なものなのです。
(140頁)

 同罪

 さて今しがた、「知らない」といい張るのは、誤解しているからだといいました。ところが、まさに誤解する目的を問題にすると、そういうふうに「知らない」というのは「知りたくない」ということなのだということがひょっとすると明らかになるかもしれません。さて、「知らない」という裏にあるのは、責任回避なのです。その人は、反射的に、責任回避をしなければならないという気持ちになるのです。それは、共同の罪を引き受けなければならないことをおそれるからです。
(143頁)

3歳で、ぼくは路上に捨てられた

3歳で、ぼくは路上に捨てられた

 
 
『古本屋の殴り書き』にてこの本を知りました。 早速購入するもなかなか読めないでいたが、GWでやっと読めた。 読み始めて24頁を読むころには嗚咽しながら号泣してしまい、それ以上読み進むことができなかった。 
 ティム(主人公)の壮絶な人生が胸を打ち続ける。
 この本に縁できたことへ感謝!